レクリエーション学、レクリエーション運動なるものに賛同してしまって、
最初に考えたのは、「みんな」とは誰?ということだった。
「みんな」より「一人ひとり」じゃないの?って今も思ってる。

人が「みんな」と口にする時、それは何人か?なんて研究報告があって、
それによると、多くの人にとっての「みんな」って3〜5人なんだってさ。
「AちゃんもBちゃんも、Cちゃんだって持ってるあれ買って!」ってこと。

まぁ、子ども時代は、「他者の仲間に入る」ことを優先する
(そのために共感、同調の笑いを表現する)らしい(笑い学研究の報告による)ので
みんなが持ってるから自分も欲しいって気持ちは分かるけど、
みんなと同じを選ぶことは、自分らしい独特さを放棄しようってことかな?

「One for All,All for One」というのも
チームの勝利のため、という前提があって、
そのことを通して体験する一体感の清らかさを否定はしないけど、
そのお題目がー人歩きして、「みんな」を強要することに
恐怖さえ覚えてしまう。

レクリエーションとは体験なのに、
理論と実技に分けるカリキュラムこそが大間違いだと思う。
実技(アクティビティ、レク財)を持ち帰ることばかり考えてる受講者は
肝心なことを忘れてる。

そういえば、このゲームをこうやると参加者はこうなる、
なんて奢ってたとある人は、自分の想定通りに事が運ばないと
「今日の客はダメだ」と参加者のせいにしてたな。
自分の考え違いを棚に上げて。

レクリエーションが体験であるということは
参加者によって、その場のハプニングによって
同じことをやっても反応が違うということだし、
その反応やハプニングを利用することこそ、
ライブ(共にある、同じ時を過ごす)ってことだよ。

だから、一人ひとりのバックボーンを知った上で(知ろうとしつつ)、
その実技を展開している背景には
どのような目配りや仕掛けがあるのかを酌み取らないと
「仏作って魂入れず」でしかないということ。
だから、実技と理論は分けられないってこと。

もっとも、理論とか言ってる単なる知識は
実技とは結びつけられないけど。

一人ひとりは違っているのに、これをやれば認知症予防になるなんてのも
浅はかな考えだと思う。
デュアルタスクトレーニングなんて、
人の脳は普段から7つのマルチタスクをこなしているのに
何を今さら二重なんて言ってんの?ですよ。

レクリエーション「指導」なんて、いいかげんにしましょうよ。
支援者なんて言って、自分だけを別の地点に置かないで、
そこにいる一人ひとりの参加者とともに
その場を共に楽しむ、同じ時を過ごす幸せに感謝する
そのためのコマでいいじゃないですか。